ホルモン治療【第十一章】
息子はジェンダー外来に通い始めた。
ホルモン治療が開始されれば、月経が止まり、声が低くなり、毛が濃くなり、男らしい身体へと変化していくことになる。
ただ、ホルモン治療が開始されるまでには、なかなかの手続きが必要だった。
まずは、性同一性障害であることの診断書をもらわなくてはならない。
そこで、数少ないジェンダー外来を探して、通い始めた。私たちの住む街にはそういった病院はなかったので、電車で一時間以上かけて。
息子の通うジェンダー外来では、本人の性自認が男性であることを確認するため、幼少期から現在までの自分史の作成、その当時の写真の提出、本人からの聞き取り等が何ヶ月にも渡って行われた。
性同一性障害に関する意見書は2箇所の病院から出してもらう必要があったため、さらに時間を要した。
そして、私が一番懸念したのは、自分の身体が女性であることを証明するために、産婦人科での診察が必要であるという点だった。
性同一性障害は「心の性」と「身体の性」の不一致を証明しなくてはならないため、「性自認は男性であり、『身体は女性である』こと」を確認する必要があるというのだ。
女性であることを否定するための診断に、女性であることの証明が必要だなんて、なんと皮肉な話だろうか。
息子は心が男性なので、ひとりでは産婦人科に入りにくいということで、私も同伴した。
そして、産婦人科の診察と染色体検査によって、息子の身体は間違いなく女性であるということが証明された。
そんなことは知っている!と言いたかった。
性分化疾患を見抜くための大切な検査であることは理解したが、私たちはこの当たり前の事実に触れぬよう、傷つけぬよう、そっとこれまでやってきたというのに、息子にその事実を突きつけるこの診察が、私には悔しかった。
でも、息子は私の心配をよそに飄々としていた。
息子はもうそんなことに拘ってはなかった。
次のステップに思いを馳せていたのだ。
こんな屈辱的な診察も、男性ホルモン投与のための踏み台と思えば、容易いことに違いなかった。
息子には、もう男性になるための覚悟がしっかりできていた。
私にできることといえば「お疲れ様」と息子の肩に手を置くことぐらいだった。
ーそして半年後、「性同一性障害」の診断が下りた。
この診断によって、息子は性同一性障害であることが医学的に認められた。
この診断書は息子の選択が間違っていなかったことを証明していた。
診断書はたった一枚の紙きれだが、これからの息子の人生を支えてくれる重みある一枚だと感じた。
まもなくして、18歳になった息子は、ジェンダー協議会の適応判定会議にかけられ、ようやくホルモン治療が許可された。
それから息子は二週間に一度通院し、男性ホルモンを注射した。
回数を重ねるごとに息子の声はみるみる低くなっていった。(現在はテノールよりも低いバスの音域の声で話すようになっている。父親に似て、とにかく低い。)
髭が生え始め、電気シェーバーを使って髭を剃るようになった。脚の毛も眉毛も濃くなった。
プロテインを飲み、筋トレをし、身体づくりにも励んだ。
そして、すっかりお洒落男子になった息子は、行きつけの美容室のスタイリストさんとも仲良くなり、毎回念入りにヘアスタイルの打合せをしているようだ。
ショッピングモールに出掛けては、服やら帽子やら靴やら、ウインドーショッピングを楽しんでいる。
鏡の前ではいつも髪のセットに余念がない。
入浴後には化粧水をつけるようになった。
シャンプーやヘアワックスにもこだわっている。
かつて女子だった頃、お洒落のおの字も見られなかったあの頃の時間を取り戻すかのように、息子は親が呆れるほどお洒落に意識高い系男子になっていた。
〈詳しくは『子育てで感じた違和感【第三章】⑤』〉
息子に聞けば、かつて女子だった頃は自分自身を受け入れることができず、とてもじゃないけれど自分を着飾る気持ちになどなれなかったのだそうだ。
でも、男子として生きている現在は、自分の容姿と向き合って、磨きをかけることが楽しくなった。
自分自身を大切にする気持ちが生まれたのだ。
もう自分で自分を否定し続けていたあの頃の息子ではない。〈詳しくは 『苦しみの泉 【第六章】』〉
自分の望む性を手に入れて、しっかりと顔を上げ、前を向くことができたのだ。
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私の誓い【第十章】
※※※『母の覚悟【第八章】』の決意により、我が子の呼称を「娘」から「息子」へ変えています※※※
これからの進む道がはっきりしてきたおかげで、息子はすっかり明るさを取り戻した。
でも、医師からは、一度発症したこころの病気は、その原因を取り去ったとしても、すぐに完治するものではなく、時間をかけながら少しずつ改善していくものだと聞かされていた。
息子も例にもれず、時々、精神が落ち込んだ。
これからホルモン治療を始めたとしても、息子の身体は完全に男性に変身できるというものではない。
声が低くなり、髭も濃くなるが、現在の骨格が変えられるわけではなく、身長も手足のサイズもこのままだ。
息子は、どんなに頑張っても男性になりきれるわけではない自分自身の姿を思い、時折り悲しみが襲うようだった。
「いっそ身体はそのままで、女の心になれたらいいのに」
息子のこの言葉に私はハッとした。
心と身体の不一致に気付いたとき、それを一致させるには、身体を心に合わせて修正するほかに選択肢はない。
でも、よくよく考えてみれば、身体を心に合わせるのではなく、心を身体に合わせる方が本当は理想的なのだ。
そうすれば、身体の機能も、社会的な立場もそのままでいられるのだ。
でも、実際にはそんなことは不可能なわけで、ホルモン治療や手術で、身体を男性に近付けるしかない。
そして、それはあくまでも近付けるだけであって、完璧な男性の身体を手に入れられるわけではない。
そうして、その不完全な状態のまま男社会に男性として入ることになる。
息子の場合、当たり前だが、これまで女性の括りのなかで育てて来たため、男社会に入って暮らした経験はない。
ゆえに、息子の友だちは女の子ばかりだ。
男の子とは学校で口をきくことはあっても、男友だちと呼べるような仲の良い存在はいなかった。
息子はたしかに男っぽい性格だったが、暮らしは完全に女社会で生きて来たのだ。
そう考えると、急に男社会の中に入るのは相当な勇気がいることだと思う。
男女平等とか個々を大切にとか言ってはいても、日本社会に根強く残る男女の格差は暮らしのなかに染み付いている。
もちろん社会は男女平等に向けて変わりつつあるが、まだまだその過渡期であり、男性の社会的立場が強い分、男性に要求されるものも大きい。
精神面ですら、男性は男らしさと強さを求められ、弱音を吐けば女々しいなどと表現される。
そんな男女の差が明らかなこの社会のなかで、息子を男性側に放り込んだことなど一度もない。
それを今度は息子自らが、自分の意志でそのエリアに足を踏み入れることになる。
それは私たちが想像する以上に恐怖を伴うものなのだ。
女性から男性になることー
それは息子の願いであったが、その願いが叶っても尚、その先にまだまだ課題があることを痛感せずにはいられなかった。
「『生まれた時から男の人』が羨ましい」
そう呟いた息子のこの言葉は私の心に突き刺さった。
『生まれた時から男の人』
こんな表現を私ははじめて耳にした。
この言葉の意味の深さがわかるだろうか。
『生まれた瞬間から心も身体も男の人』という意味だ。
息子は生まれた時は女性であり、途中で男性に修正をかけるのだ。
生まれた時から心も身体も男性であれば、こんな苦しみを持つこともなかった。
『生まれた時から男の人』
こんな当たり前のことが当たり前でない我が子。
我が子の心と身体の性を一致して産んでやれなかったことを本当に申し訳なく思う。
性同一性障害は先天性であり、誰のせいでもないと言われているが、私のお腹から生まれた以上、母親として、どうしても思い悩まずにはいられない。
何がいけなかったのか、どうすればよかったのか。
このことを考え始めるときりがない。
人生は苦労の連続と言われている。
神様が私に課した試練や苦労ならいくらでも受け入れよう。
でも、私の体内で起こった試練は、そのまま息子の人生を変えてしまった。
私がこの手で我が子に課した苦労であるように思えてならない。
そのことを考える度に胸が締め付けられるようなどうしようもない苦しさに襲われる。
ハンデキャップを背負った子をもつ親たちは皆こうやって自分を責めているのかもしれない。
『生まれた時から男の人』もしくは『生まれた時から女の人』にどうして産んでやれなかったのか。
ごめんよ。涙で目の前が滲む。
でも、自分がそのことを責め続けている限り、我が子は幸せにはなれないのではないか、そんな気がした。
だったら、私はこの運命をそのまま受け入れて、息子の心の支えとなって、共に立ち向かって行かなくてはと気持ちを立て直した。
トランスジェンダーというほんのわずかの確率で引き当てた数奇な人生は、ほんのわずかの者にしか経験できないような貴重な世界を私たちに見せてくれるかもしれない。
トランスジェンダーに生まれたからこそのかけがえのない出会いや、だからこその出来事が待っているのかもしれない。
一度しかない人生を涙で終わらせないように、幸せな人生だったと思えるように、そのためにはまず自分の生き方に自信を持ち、俯かず、前を向いて歩くこと。
そうだ。まずは、私がその手本を示さなくては。
だから、私は我が子がトランスジェンダーであることを悲観したり、隠したりなどしないと強く心に誓った。
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父の葛藤【第九章】
※※※ 『母の覚悟【第八章】』の決意により、我が子の呼称を「娘」から「息子」へ変えています※※※
自分の娘から「俺は男だ」と告げられる父親の心境を思うと、それは母親が受ける以上の衝撃かもしれない。
あの子は私たち夫婦にとって最初の子どもだった。
初めて我が子に対面した時の「かわいい〜」と顔をくしゃくしゃにして喜んだパパの顔を私は今も忘れられない。
女の子は父親にとって何よりも愛おしい存在なのだ。
初めて口にした言葉も「ママ」じゃなくて「パパ」だったとパパは自慢気だった。
(赤ちゃんは「マ」より「パ」の発音がしやすいだけだという説を聞いたこともあるが、それはさておき)
とにかく喜んでいた。
でも、「パパ」と呼ばれるのも10歳までだったわけだが。
〈詳しくは『子育てで感じた違和感【第三章③】』〉
息子は父親には口頭で告白した。
でも、
「あなたは男の子じゃありません」
「ホルモン注射もしません」
と一蹴されてしまう。
無理もない。
はじめて聞けばそんなふうに返してしまうのもやむを得ない。
娘の父親なのだから尚更だ。
「なにも身体を男にしなくても、男らしく生きるということではダメなのか」
そう言ってしまった気持ちも、私にはよくわかる。
私は、いつだったか息子がたとえ話で私に話してくれたことをパパに伝えてみた。
「ある日、パパが目が覚めたら、自分の身体が女の身体になっていたら、どう?」
「『あなたは身体が女なのだから、女性です。今日から女として生きてください』と、自分の性別を女性として決められてしまったら、どう?」
「『待ってくれ!違う!オレは男だ!』って抵抗するよね?」
「『この身体は俺じゃない!』て思うよね?」
「心は男なのに女として生きていくなんて絶対無理だよね?」
息子の置かれている立場は正にそういう状態なのだと伝えた。
そして、これまでのこの子の苦しみの根底には、間違いなく性同一性障害の問題があったのだということ、どんな逆境にあっても親だけは味方でいてやりたいということを、ふたりで毎日話し合った。
娘の父親としては、おそらく母親の私よりも、この事実を受け入れるのは相当キツかったと思う。
なかなか受け入れることに抵抗のあった父親も、息子の言葉や行動をひとつひとつ思い起こしていけば、自ずと、彼を女の子と捉えるよりも男の子と捉えるほうが自然であることに気付いた。
もう何年も前から、言動も態度も既に男の子そのものだったからだ。
私がそうだったように、父親もあの子を「娘」ではなく「息子」だと思った方がしっくりくる出来事が数えきれないほどあったのだ。
やがて、父親も心の葛藤を乗り越えて、息子の思いを受け入れた。
ようやく父親にホルモン治療を認めてもらった息子は「これで一歩前に進める」と喜びながらも、父親の思いを察し、自分の気持ちを引き締めたようだった。
ホルモン治療は、日本では基本的に18歳から受けられることになっており、その年齢を待ってすぐに治療を開始したいというのが息子の願いだった。
私たちは何もそんなに急いで治療しなくてもいいのではないか。まもなく成人するのだから(当時は20歳から成人)、それからでもいいのではないか。そう思った。
特に父親は、万一「性同一性障害じゃなかった」となってしまったときに取り返しがつかなくなることを畏れていた。
でも、私は、あの子が男性になれるとわかってからの変貌ぶりを目の当たりにして、もうそんな疑いは持っていなかった。
この子は紛れもなく男の子だ。
だから、周りから、
「いま思春期で多感な時期だから、そんなこと言い出すんだよ」
と言われたときも、
「いまは男の子っぽくても、やがて時期が来れば女らしくなるよ」
と言われたときも、
「子どもが誤って道を外しそうになったときに、その道を修正してやるのが親の役目だろ」
と言われたときも、
私の気持ちがブレることはなかった。
そんな言葉に負けなかった。
このまま何もしなければ、息子の身体は歳とともにどんどんと女性らしさを増していく。
なるべく早く治療を始めることで、より男らしい体つきを手に入れることができる。
そんな息子の願いを叶えてやりたい。
私たち夫婦は、息子が18歳になったらすぐにホルモン治療を始めることを認めた。
親というものは最終的には子どもの意志を尊重するものだと思う。
それでも、性別適合手術については今すぐの答えは出せなかった。
身体に医学的なメスが入ることにはどうしても抵抗があった。
でも、戸籍の性別が女性である以上、息子はどんなに男っぽくなっても女性なのである。
「結局、偽物の男なのだ」と淋しく息子は言う。
日本では、いくら「性同一性障害」の診断が下りても、性別適合手術を受けない限り、戸籍の変更は認められていないのだ。
諸外国に後れをとったこの法律に憤りを覚えながらも、性転換についてはもう少し時間をかけて考えたかった。
まずは、今できること、ホルモン治療から始めることにした。
いよいよ女性から男性へと変身する一歩を踏み出すことになる。
もう後戻りはできない。
でも、私は息子の輝く瞳を見て、この選択に間違いはないと改めて確信していた。
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母の覚悟【第八章】
私は、娘のカミングアウトを受け入れた。
それは、あの告白のLINEだけのせいではない。 〈詳しくは『カミングアウトの日【第四章】』〉
この半年、私は我が子の命を失うかもしれない生と死のギリギリラインを何度も見てきた。
娘は全身全霊、身体を張って、性同一性障害を私に訴えてきた。
そのエネルギーに押されたからかもしれない。
そう、そのくらいのパワーで訴えて来なければ「性別を変える」などというこんな高いハードルは跳び越えることはできなかったかもしれない。
親も子もそれこそ命懸けだ。
〈詳しくは『苦しみの泉【第六章】〉
それからの私は必死にトランスジェンダーについての情報を集めた。
最近、よく耳にするようになったLGBTについても、まだ中身はよくわかっていなかった。
こうした性的マイノリティの人は極少数ではあるが、確実に存在する。
娘のように身体は女だけれども性自認が男である場合をFTM(Female To Male)、その反対はMTF(Male To Female)と呼ばれる。
YouTubeにも、娘と同じFTMのチャンネルがいくつかあり、特に「キットチャンネル」は何度も観た。
全く男性にしか見えない元女子のふたりが活躍するYouTubeは私の心の支えだった。
娘の未来と重ねて、こんなふうに明るく生きていける将来がこの子にも待っていてほしい。そう願った。
とにかく毎日毎日、娘と同じ境遇にある人の情報を調べ続けた。
人数は少ないけれど、確実に存在するたくさんの実例に触れながら、私は救われる思いだった。
自分たちは孤独ではない。
会ったことはないけれど、私たちには同じ境遇の仲間がいる。
ネットを通して、このスマホの向こう側にたくさんの仲間がいると思えたことが、私の心の支えとなった。
(私が自分の体験談をブログで発信する決意をしたのも、情報発信の大切さを知ったからにほかならない)
そして、私が一番懸念していたこと、娘の幼少期には確実に女の子の意識があったという点。
〈詳しくは『可愛い女の子【第二章】』〉
調べていくと、自分がトランスジェンダーだと自覚するのは思春期を迎えてからの人も多く、幼少期から意識することだけが絶対ではないこともわかった。
いわゆる思春期と呼ばれるような第一次性徴期、第二次性徴期には女性は女らしく、男性は男らしい体つきへと変化していく。
その時期になって初めて、それをどうしても受け入れられない自分に気づき、性同一性障害を自覚する人も少なくないということを知った。
そして、トランスジェンダーの人たちにとっては、体内で作られないホルモンは外部から入れるしかないため、ホルモン注射をせざるを得ない。
少しでも自身の身体を自認している性に近づけたいという思いは本能として当然であると感じた。
ホルモン注射は二週間に一度のペースで一生打ち続けなくてはならないという。
ある時『外から入れるホルモンのせいで寿命が短くなる』という記事を見つけ、ショックを受けた私は、恐る恐るそのことを娘に伝えてみた。
すると、娘はそのことは既に承知していて、
「自分の性に嘘をついて長生きするより、寿命が短くなったとしても、自分が自分らしく、正しい性で生きられる短い人生のほうがずっといい」
と何の迷いもなく言い放った。
このとき私はこの子は本気だと確信した。
※後に、このホルモン治療により寿命が短くなるという説は噂話に過ぎず、根拠のない話だと知る。
私はホルモン注射を打つことも許してやらなくてはならないと思った。
そして、日に日に女性らしく丸みを帯びた身体つきになることを止めるには、一刻も早いホルモン治療の開始が必要だと知った。
私がホルモン治療を認めると、娘は本当に嬉しそうだった。
この治療により、顔も男らしくなり、髭が生え、声変わりも始まるのだそうだ。
思春期の男の子が経験する事象が一気に起こり始めるらしい。
娘が自分をいくら男の子っぽく着飾っても、身体が女であるという事実はどうしても娘を苦しませていたが、その身体が少しでも男性に近づけることは、私たちの想像以上にこの子の心を救っていることがわかった。
娘からのカミングアウトを受け入れてからは、胸を潰して服が着られる「なべシャツ」を買ってやったり、ボクサーパンツの下着を買ってやったりした。
お洒落に興味がなかった頃が嘘のように、髪の色を染めてみたり、ツーブロックにしたり、カッコいいメンズ服を買ってきたりしてオシャレを決め込んでいる。
娘は私の承認を得たことで、堂々と男子の恰好ができるようになり、見違えるように生き生きとしてきた。
そんな様子を見ながら、私は、この子は本当に男の子なのだとつくづく感じた。
--私も覚悟はできた。
〈ここからは、娘ではなく、息子と呼ぶことにする〉
自分の進む道が見えてきた息子はすっかり明るさを取り戻し、徐々に体調も回復してきた。
あのとき私に見えた死神はもう二度と姿を現すことはなかった。
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出会いと大きな光【第七章】
娘は一ヵ月の入院生活となったが、そこで出会った主治医の先生が娘の心を救ってくれた。
その医師は性同一性障害の施設で働いた経験があり、その道にも詳しかった。
娘が胸の内を伝えると、とても親身になって相談に乗ってくれたのだそうだ。
性同一性障害のカウンセリングで、まず最初の一歩として医師が勧めるのは、服装を男モノに変えてみることなのだそうだ。
「でも、もう君はやっているね」
そして、次は髪を短くして男の子のようなヘアスタイルにしてみることだそうだ。
「でも、もう君はやっているね」
次は、男モノの下着に変えてみようと提案し、少しずつ男の子のスタイルに近づけていくのだそうだ。
「でも、それも、もう君はやっているね」
そして、最後は公共の場の男子トイレを使ってみることを勧めるのだそうだ。
「でも、それも、もう君はやっているね」
そう、娘はいつからか公共のトイレも男子トイレを使うようになっていた。
実際、外で女子トイレに入る方が、外見的にもNGだった。
周りの女性から冷ややかな視線を送られたり、娘を見て、慌ててトイレから逃げ出していく人もいた。
ある日、勇気を出して、男子トイレに入ってみると、女子トイレを使っていた時よりもよっぽど平和にスムーズに使えたことから、その日以来ずっと娘は男子トイレを使っていたのだ。
医師は続けた。
「これまで僕が挙げたすべてのことを君はもうすでにやっている」
「君は、これまでたった一人で、その一つひとつを自分の力で切り開いてきたんだね」
「先生はすごいと思う。勇気ある行動だ」
娘は驚いた。
娘は、初めて男性になろうとする自分を肯定してくれる人に出会うことができたのだ。
どんなに心強かったことだろう。
この話を聞いて、私も涙が出そうになった。
それをきっかけに、娘は自分が性同一性障害であることに真っ直ぐに向き合えるようになったと言う。
それまでは、自分の性別が違うとは気づきながらも、この答えで本当にいいのか、どこか不安を抱えたような感じもあったが、自分の道は間違っていないのだと確信したのだった。
娘は大きな光を得て退院した。
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苦しみの泉【第六章】
カミングアウト、今日のこの日にいたるまで、娘は相当な苦しみを抱えて生きてきた。
〈詳しくはカミングアウトの日【第四章】〉
半年前から学校にも行けなくなり、自分の存在を否定し、自分で自分を傷つけるようになった。
スクールカウンセラーさんからは自傷は死ぬためではなく、生きるためにすることだと教えられた。
自傷することで、脳内麻薬が分泌され、その瞬間は苦しみから解放されるのだそうだ。
精神が正常な状態にある人間からは想像もつかない行為であり、甘えだとか、かまってほしいからだとか勘違いされがちだが、傍にいた私から見れば、その行為はまるで苦しみの泉に溺れもがきながらなんとか水面から顔を出して酸素を求める息継ぎのように思えた。
生きようとして必死で息を吸っているのだと。
だから、私はその行為に気付いていても、見て見ぬ振りをし、心の中では涙を流しながら、でも、決して子どもにはそれを悟られぬよう嘘の表情を作って、冷静に淡々と傷の手当てだけを続けた。
心に嘘をついて平静を装う毎日に、私の精神もボロボロになりそうだった。
自分の性と心が一致しない苦しさは計り知れない。
ネットで検索をかけると、数々の事例にあたるが、なかでも、トランスジェンダーの子どもたちがカミングアウトできずに苦しんでいる姿には胸が痛くなる。
当時、私の娘もその子たちと同じ苦しみの中にいた。
みんな共通して、自分の存在を否定する。
性と心が一致しない自分は気持ち悪い人間だ、生きていてはいけない人間だ、どうしてこんな体に生まれてしまったのか、と。
その悲痛な叫びはどこに訴えることもできないまま、自分の心の中で押し殺し、抑えきれない苦しみとなって、やがては不登校や心の病を導いて来る。
娘はおそらく渾身の勇気を振り絞って私にカミングアウトをしたが、それに対して、私はどうしてやることもできなかった。
娘が自分の性別を男性であると捉えていることはわかった。
だが、「性別を変えたい」と言われても、これを受け入れることは容易なことではない。
注射や手術については、もはや恐怖にも似た感情さえ起こった。
戸惑い続けていた私は、カミングアウトをされてからも、そのことには触れず、「あなたの気持ちを尊重する」なんていう中途半端な肯定だけを告げて、そのまま逃げてしまっていたのだ。
自分の身体を受け入れられなくなった娘は、だんだん自尊心が薄くなり、希死念慮が強くなっていった。
生きるか死ぬかの瀬戸際を歩いているような毎日だった。
一歩間違えば、向こうの世界に行ってしまうかもしれない不安定な精神状態でギリギリの生活を送っていた。
娘の情緒が不安定になる時、私には娘の背後に死神が大きな鎌を携えて立っている姿が見える気がした。
娘の行為は、本人が望んでそうしているのではなく、死神に操られているように思えた。
やがて、その死神は私の背後にも現れるようになり、娘と同じ世界に引っ張られる感覚を覚えた。
私も相当弱っていた。
娘といる時間が長い分、私の心も疲れていた。
やがて、家族全体が疲弊した。
自傷は生きるためにする行為とはいえ、その延長線上には戻れない場所があり、娘はふとした瞬間にその一歩を踏み出す危険性があるとの診断により、専門の病院に入院することになった。
でも、この入院で、娘は地獄から立ち上がる出会いをすることになる。
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不登校【第五章】
--カミングアウトの半年前
高校2年の夏を過ぎた頃から、娘は学校に行けなくなった。
電車で学校に向かう途中、駅のトイレの中で涙が止まらなくなった日を境いにして、娘は学校に行けなくなった。
ぜんまい仕掛けのオルゴールの音色が最後途切れ途切れになり、やがてカチッと止まったような感覚だった。
毎朝「行きたくない」と言いながら、それでもなんとか出掛けて行っては「帰りたい」のラインが来る日々。
学校に行くのがしんどそうな子どもの姿を見るのは本当に切ない。
肩を落として出掛ける子どもの背中に向かって、「いってらっしゃい」と声をかける苦しさ。
「休んでいいんだよ」と声掛けしても、まだオルゴールの音色が途切れ途切れの間は、娘はギリギリの状態でなんとか通学を続けた。
でも、やがて、ぜんまいは力尽き、カチッと止まってしまった。
こころの病だった。
--自分の子どもが不登校になる。
小学校のときも、中学校のときも、学年に一人か二人、不登校の生徒がいた。
その親御さんの心境を思うと、どんなにか辛いだろうと推測していた。
でも、いざ自分がその立場になったとき、やっぱり他人事だったのだなと思った。
自分が経験してみると世界は全然違った。
世の中の子どもたちが当たり前のように学校で過ごす毎日を、我が子は家で過ごす。
みんなが授業を受けている時間、 我が子は、一日中、眠り続けていても、テレビを観ていても、パジャマで過ごしていても、誰からも何のお咎めもない。
不思議な感覚だった。
学校に行っていれば、宿題をしなかったら、忘れ物をしたら、居眠りをしたら、あんなに叱られるのに。
学校に行かなくなったら、何をしていても、もうなんのお咎めもない。
そう、私たちは静かに社会から隔離されたのだ。
そんな感じがした。
激しく動いている世間の中で、娘と私だけが取り残された。そんな感覚だった。
他の親たちからは決して理解されることのない、孤独と不安のなかに落ちた。
でも、不思議と苦しくはなかった。
二人っきりで世間から隔離された分、私は我が子との距離をこんなにも近く感じたのは初めてだと思った。
ふと、これは神さまが与えてくれた特別な時間かもしれない。私は本気でそう思った。
だったら、学校で笑顔を失った娘のために、せめて家の中では笑顔でいられるように、楽しく過ごせる企画を考えよう。
それからというもの、私は心のなかで「学生の皆さん、ごめんなさい!」と手を合わせて、
真っ昼間から、娘と映画館で映画を観た。
ドライブで緑の多い公園を巡った。
TSUTAYAでDVDを借りて、昔のドラマや映画を観まくった。
喫茶店で珈琲を飲み、レストランでランチをした。
こんな暮らしは間違っているかもしれない。
非常識かもしれない。
でも、もう世間体とかそんなものどうでもよかった。
娘は心が疲れて眠り続けることが多かった。
涙が止まらない日も、遠くを見つめたまま反応のない日もあった。
それでも、私は、神さまがくれた貴重な時間を無駄にするまいと、毎日、娘に働きかけた。
楽しいことに集中している時、娘の精神は少し安定しているように思えた。
娘が何に怯えているのかはわからなかったが、娘に笑顔が戻ればそれでいいと思った。
何かに怯え、息を潜めて小さくなってしまった娘に、私が盾となって、安全な場所で、深呼吸させてやりたかった。
この時点では、まだ娘本人も自分のトランスジェンダーには気づいておらず、「性別違和」という言葉が自分に当てはまるのではないかと疑い始めた頃だったようだ。
でも、今にして思えば、学校に行けなくなってしまった原因に、この性的な問題が絡んでいなかったとは思えない。
高校進学のとき、女子校にだけは行きたくないと言って共学校を選んだが、共学であったがゆえに、いやでも学ランを着た男子生徒を目の当たりにしなければならず、その一方で、自分は女子の制服を着て、スカートを履いている姿にストレスを感じていたのではないだろうか。
本人は気づいていなくても、性と心の不一致は、我が子の心の根底で大きな悲鳴をあげ始めていたのかもしれない。
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