不登校【第五章】
--カミングアウトの半年前
高校2年の夏を過ぎた頃から、娘は学校に行けなくなった。
電車で学校に向かう途中、駅のトイレの中で涙が止まらなくなった日を境いにして、娘は学校に行けなくなった。
ぜんまい仕掛けのオルゴールの音色が最後途切れ途切れになり、やがてカチッと止まったような感覚だった。
毎朝「行きたくない」と言いながら、それでもなんとか出掛けて行っては「帰りたい」のラインが来る日々。
学校に行くのがしんどそうな子どもの姿を見るのは本当に切ない。
肩を落として出掛ける子どもの背中に向かって、「いってらっしゃい」と声をかける苦しさ。
「休んでいいんだよ」と声掛けしても、まだオルゴールの音色が途切れ途切れの間は、娘はギリギリの状態でなんとか通学を続けた。
でも、やがて、ぜんまいは力尽き、カチッと止まってしまった。
こころの病だった。
--自分の子どもが不登校になる。
小学校のときも、中学校のときも、学年に一人か二人、不登校の生徒がいた。
その親御さんの心境を思うと、どんなにか辛いだろうと推測していた。
でも、いざ自分がその立場になったとき、やっぱり他人事だったのだなと思った。
自分が経験してみると世界は全然違った。
世の中の子どもたちが当たり前のように学校で過ごす毎日を、我が子は家で過ごす。
みんなが授業を受けている時間、 我が子は、一日中、眠り続けていても、テレビを観ていても、パジャマで過ごしていても、誰からも何のお咎めもない。
不思議な感覚だった。
学校に行っていれば、宿題をしなかったら、忘れ物をしたら、居眠りをしたら、あんなに叱られるのに。
学校に行かなくなったら、何をしていても、もうなんのお咎めもない。
そう、私たちは静かに社会から隔離されたのだ。
そんな感じがした。
激しく動いている世間の中で、娘と私だけが取り残された。そんな感覚だった。
他の親たちからは決して理解されることのない、孤独と不安のなかに落ちた。
でも、不思議と苦しくはなかった。
二人っきりで世間から隔離された分、私は我が子との距離をこんなにも近く感じたのは初めてだと思った。
ふと、これは神さまが与えてくれた特別な時間かもしれない。私は本気でそう思った。
だったら、学校で笑顔を失った娘のために、せめて家の中では笑顔でいられるように、楽しく過ごせる企画を考えよう。
それからというもの、私は心のなかで「学生の皆さん、ごめんなさい!」と手を合わせて、
真っ昼間から、娘と映画館で映画を観た。
ドライブで緑の多い公園を巡った。
TSUTAYAでDVDを借りて、昔のドラマや映画を観まくった。
喫茶店で珈琲を飲み、レストランでランチをした。
こんな暮らしは間違っているかもしれない。
非常識かもしれない。
でも、もう世間体とかそんなものどうでもよかった。
娘は心が疲れて眠り続けることが多かった。
涙が止まらない日も、遠くを見つめたまま反応のない日もあった。
それでも、私は、神さまがくれた貴重な時間を無駄にするまいと、毎日、娘に働きかけた。
楽しいことに集中している時、娘の精神は少し安定しているように思えた。
娘が何に怯えているのかはわからなかったが、娘に笑顔が戻ればそれでいいと思った。
何かに怯え、息を潜めて小さくなってしまった娘に、私が盾となって、安全な場所で、深呼吸させてやりたかった。
この時点では、まだ娘本人も自分のトランスジェンダーには気づいておらず、「性別違和」という言葉が自分に当てはまるのではないかと疑い始めた頃だったようだ。
でも、今にして思えば、学校に行けなくなってしまった原因に、この性的な問題が絡んでいなかったとは思えない。
高校進学のとき、女子校にだけは行きたくないと言って共学校を選んだが、共学であったがゆえに、いやでも学ランを着た男子生徒を目の当たりにしなければならず、その一方で、自分は女子の制服を着て、スカートを履いている姿にストレスを感じていたのではないだろうか。
本人は気づいていなくても、性と心の不一致は、我が子の心の根底で大きな悲鳴をあげ始めていたのかもしれない。
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