戸籍の性別【第十五章】
自分が性同一性障害であることに気づいたとき、その人がとる行動は実に様々だ。
息子のように、身体の手術を受けて戸籍まで変えたいと思う人もいれば、手術をしても戸籍の性別はそのままでいいという人もいる。
性別を訂正して暮らしていても手術はしなくていいという人もいる。
胸の手術だけをする人もいる。
異性の格好をするだけでいいという人もいる。
--身体とこころの性が違う--
その歪みを埋めるための方法は、その人その人によってそれぞれ違うのだ。
その人が生きやすいように自分の生きる道を選択すればそれでいい。
でも、その選択は自由に選べる世の中であるべきだ。
それなのに、戸籍の性別を変更したいと願う者に対して突き付けられる日本の法律の信じがたい条件。
「生殖腺がないこと」
「生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること」
そこに自由などなかった。
(詳しくは『信じがたい条件【第十四章】』)
そもそも「性別を変更する」というこの言葉。
この表現自体、私はおかしいと思う。
私もこの表現を何度か使ってきたけれど、「変更」とか「変える」とかいう表現では、まるで自分の好みで選んでいるような印象になってしまうのではないか?
でも、実際はそういうことではない。
「変えた」のではなくて、間違っていた性別を本来の正しい性別に「正した」と言った方が正確だ。
息子は正しい性別に直したいだけなのだ。
だから、私は我が子のことを話す時、「女性から男性に性別を訂正した」と表現している。
今の世の中は、個性を尊重して、その人その人の生き方を認めている。
それは素晴らしいことだと思う。
でも、もし「いまは個性が尊重される自由な時代だから、男になりたかったらなればいいし、女になりたかったらなればいい。性別を変えるのも自由だよね」というふうに捉えている人がいるとしたら、
それは違うと言いたい。
彼らは自由に性別を選んでいるわけではない。
生まれた時から間違った性別を割り当てられてしまったのだ。
性別を身体で判断したせいで、私の息子も生まれた瞬間から「女性」として識別された。
そして、それを疑うこともなく、私も息子を女の子として育てて来てしまった。
オオカミに育てられた人間は、自分をオオカミだと思い込み、四つ脚で歩行するようになるという。
息子も娘として育てられたせいで、ある程度の年齢まではそれを素直に受け入れて、周りに染められて女の子らしく育った。
でも、思春期を迎えて、女性ホルモンが身体のなかで大きく作用する時期になると、息子はその違和感に気がついた。
女らしくなっていく肉体と、男でありたいと思う精神は真逆の方向へ向かい、それは心を引き裂くとてつもない苦しみとなって息子を襲った。
オオカミに育てられた少年もある時期が来たとき、自分は本当は人間であることを自覚し、心のバランスが崩れたのではないだろうか。
息子が女性から男性になることを望んだのは、「男の子になりたい」などという憧れみたいなものとはわけが違う。
もともと男の子だった自分を「どうか男の子に戻してくれ」という叫びにも近い訴えなのだ。
息子は途中で男の子に変更したのではない。
最初から男の子だったのだ。
だから、戸籍の性別を変更したいのではなく、訂正したいだけなのだ。
それなのに、日本で性別を訂正するには、生殖機能を失くすことを条件とする過酷な代償が用意されていた。
おそらく社会のなかの性の秩序を保つためなのかと推察するが、性的指向の自由が認められてきた昨今、生殖機能を失くすことを条件とする法律など時代錯誤も甚だしい。
この法律の撤廃を求めて訴訟を起こして戦っている人もいる。
大いに応援したいし、こうした動きが少しずつ国を動かし、法律も変わっていくと思う。
きっと、手術をせずとも戸籍の性別を訂正できる日がそう遠くはない未来に訪れると信じている。
そして、息子のようにホルモン投与や手術を選択するトランスジェンダーには、それが医療的処置とみなされ、保険適用が認められるようになってほしいと願う。
そして、いつか医療技術も進歩して、性別適合手術の「足し算」の部分も進化して、性同一性障害者にとって、心と身体の性を一致させる治療となってくれることを願っている。
でも、息子はそのいつかを待つことなく、手術を受けることを既に決意していた。
息子には自分の身体から女性の部分を排除したいという強い思いがあった。
と同時に、その決意の裏側で息子が抱いていた複雑な心境に、私はまだ気づいていなかった。
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