ふたつの感情【第一章】
私たちは普段何かに記名をするとき、
その氏名欄の横に必ずといっていいほど用意されている「性別」の欄に戸惑いを感じることはない。
だが、性同一性障害の人々は、この「性別」欄でペンが止まり、そのペン先はしばらく宙を泳ぐことになる。
自分は何者なのか、男なのか女なのか、そのことをまた考えなくてはならなくなる。
自分は自分であるだけなのに、そこに男女の別を記入しなくてはならない制約は彼らを苦しめる。
我が子がそんな苦しみを抱いていることにまだ気付いていなかった私に、カミングアウトの日はやってきた。
それは息子(それまでは娘だと思っていた)が17歳の時だった。
―― 俺は性同一性障害だと思う ――
この言葉から始まった我が子からの告白については、後に触れることにする。
子どもからトランスジェンダーであることをカミングアウトされたとき、私がそうだったように、ほとんどの親は大きなショックを受けることになる。
子どもの口から発せられた言葉のなかで、これほどの威力をもつ言葉があるだろうか。
脳震盪を喰らったような衝撃で一瞬思考が停止した。
「いやいや、何を言ってるの?! 違う違う!!」
咄嗟に全否定の言葉が口から出そうになったが、
私はグッとその言葉を飲み込んだ。
そのまま言葉にすれば、我が子を傷つけると即座に思ったからだ。
口にこそ出さなかったが、到底、認められるものではなかった。
でも、私の中で、否定したその感情を追いかけるように、今度はその否定を更に否定してくるもうひとつの感情がもやもやと拡がってきた。
そして、どこか遠くのほうで、「そういうことだったんだね」と、なにか腑に落ちたような感覚すら芽生えていることに気がついた。
いやいや、そんなことはない!
とまた、それを打ち消すもうひとつの感情。
私は自分の心の中に生まれた相反するふたつの感情に押しつぶされそうになった。
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